大 内 宿(おおちじゅく)
現在では「おおうちじゅく」が通称になってきています。
大内宿(おおちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町にある宿場町。
栃木県今市から城下町会津若松に通じる旧会津西街道、別名南山通りまたは下野街道《約30里(約120km)》に沿った山間の平地にあります。
平清盛の全盛時代、高倉宮以仁王(後白河天皇の第二皇子)は、源頼政と共に平家打倒の挙兵を行いました。
しかしこの計画は平家に発覚、京都・宇治川を挟んでの合戦で頼政は討死。
史実では、高倉宮はからくも逃げ延びましたが、奈良に向かって敗走の途中、流れ矢に当たって討ち取られたことになっています(享年30歳)。
伝承ではその場を逃れ、東海道から甲斐・信濃の山路を越え上野(栃木県)の沼田から桧枝岐に抜け、
ここ大内にたどり着き、この村に潜行したということです。
毎年、半夏の日(7月2日)に高倉宮を祭る半夏まつりが行われます。
村中の男衆が総出で参加し、古式ゆかしい行列が宿場内を練り歩き、村の西はずれにある高倉神社に帰っていきます。
この様な祭礼が幾百年もの間、山間の大内宿で行われてきたという事で、高倉宮を敬う村人の強い信仰心が伺われます。
天正10年(1590年)には豊臣秀吉が会津平定の帰りにここに立ち寄ったとあります。
この街道が整備されたのは参勤交代の制度が確立してからですが、
会津藩は正保4年(1647年)に宿駅、承応元年(1652年)荷物運送の決まりを作って整備を計っています。
大内宿は参勤交代の際には宿泊するための宿場ではなく、基本的には昼休みをとるための宿場でした。
朝、会津を出発、大内でお昼休憩、田島で宿泊という具合です。
会津藩主(初代、2代、8代)の参勤交代の際もこの街道を通り、年に数万俵にのぼる廻米も運ばれていました。
戊辰戦争《慶応4年/明治元年(1868年)》の際には、多くの集落が焼き討ち、米穀衣類一切分盗られる犠牲に遭いました。
大内は会津軍と新政府軍の激戦の場でした。
会津軍後退のときには、あわや焼き討ちに遭うところでしたが、
伝承では、当時の名主が死を覚悟し抵抗したことによって免れたと言われています。
時代は幕末から明治と移り、新しい時代を迎えても大内宿は江戸時代のままでした。
人馬の往来も大きな変化はありませんでした。
ところが明治17年(1884年)、日光街道( いまの国道118号と121号)が大川沿いに開通しました。
関東と会津の最短距離であり、道幅も広く補修も完全であったため、人の流れはそちらへ移っていきました。
大内宿は時代に取り残されてしまったのです。
昭和の時代、第2次世界大戦後、村の生活は少しづつ変わり始めました。
電気が引かれ電灯になり、30年代にはテレビの普及や耕耘機の導入。
40年代になると簡易水道が引かれ、井戸を持つ家は数軒になってしまいました。
昭和44年(1969年)、武蔵野美術大学建築学科の学生だった相沢韶男(つぐお)氏が、茅葺職人の取材でここを訪ねた際、
ここの重要性に着目し、文化庁に保存の必要性を説いたそうです。
昭和49年 (1974年)にはこの町を流れる川の上流に大内ダムが着工され、その補助金で茅葺は急速に姿を消し、アルミサッシが普及していました。
トタンに被われた元茅葺屋根の集落は、それがいかに連続していても古い町並としての雰囲気は損なわれていました。
昭和56年(1981年)に伝統的建造物群保残地区の指定を受け、江戸時代の面影を残す数少ない宿場町として知られるようになりました。
保存地区制定後に茅葺き屋根に吹き替え、電柱は取り除き、街路の舗装を外し土道とし、発掘調査を行い街路の両端を流れる水路の整備などを行った。
こうして、この大内宿は宿駅として現役だった頃の外観を、当時以上に程度よく整えていったのです。
現在保存されているのは、茅葺屋根の家並みが街道沿いに南北500メートル、東西200メートルほどだけです。
全部で44戸あり、このうち31戸が江戸時代から明治に掛けて建てられたものです。
反切り屋根、寄せ棟造りに統一され、壮観です。
水路を挟んで荷物を積み卸しする為の広場があり、宿場町らしい風情があります。
大内宿の名物の一つに「ねぎそば」があります。
箸の代わりに丸ごと一本のネギで食べるのです。
ネギで蕎麦をたぐり、蕎麦を食べつつ、薬味でもあるネギをかじる「高遠そば」と同じです。
会津松平家の初代藩主松平正之は、その前信州高遠の城主であり、高遠のそば職人が大内にそばを広めたと言われています。
2008年2月24日(日) 記 /
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