津  和  野

島根県津和野町


つわぶきの花   写真提供:梅干のオカハタ スタッフブログ


津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつと言われています。
遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとめ、
その清楚で高雅な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・・「つわの」と呼ぶようになったという。
このような伝説をもつ津和野の歴史は古く、縄文時代までさかのぼります。

町教育委員会の調査によれば、今から約9000年前の早期縄文時代から人々が住んでいたことが確認されています。
これまでに町内19ヶ所で遺跡が発掘されており、石斧、土器、石器などが採集されています。 
これらの発掘により、当地域は後期縄文時代には九州文化圏の影響を受けていたこと、
そして、約1700年前の前期古墳時代の土器により当時、山口地方と山陰地方を結ぶ交通の要所として
両方の文化が交流する重要な場所であったことなどが分かっています。

また、平安時代の前半頃(約1200年前)の土師器や須恵器、緑釉陶器とともに、
4枚の承和昌宝(じょうわしょうほう)という銅銭も発見されています。
承和10年(834)には能濃郷の成立、稲作の水田開発が進み、津和野川流域で集落が形成されたことが伺えます。

文永・弘安の役(蒙古襲来)の軍功により、鎌倉幕府は弘安5年(1282)吉見頼行を
能登国から西石見の地頭に任命し、海岸防備にあたらせた。
吉見頼行は永仁3年(1295)から標高372mの城山の山頂に築城を開始、
正中元年(1324)吉見氏二代頼直の時に約30年の月日をかけて完成したといわれ、当時は三本松城と呼ばれていた。
以後、吉見氏は鎌倉時代から戦国時代にかけ14代300年間にわたって、逐次城の増改築を行い、
要害堅固な中世山城を築き上げた。
その後、吉見氏は大内氏家老としてその傘下に入りました。


11代正頼の時代、石見吉見氏は大きな発展を遂げます。
天文20年(1551)9月1日、主君大内義隆は陶 晴賢(すえはるかた)の謀反により、長門国深川の大寧寺において自刃しました。
正頼は義隆の姉大宮姫を娶っていたため、義隆とは義兄弟の間柄でした。
天文22年(1553)10月10日、正頼は三本松城及び嘉年城、下瀬山城などに拠って陶晴賢討伐の兵を挙げます。
当時の大内家中にあっては孤立無援の状態でしたが、恩ある主君であり、義弟でもある大内義隆に対する義のために立ち上がったのでした。
天文23年(1554)3月、いよいよ陶晴賢は2万8千の兵をもって吉見討伐に乗り出し、
長年の宿敵、益田氏もこれに呼応して吉見氏を背後から衝きました。
4月、三本松城は大軍に包囲され、以後5ヶ月がかりの籠城戦が展開されました。
8月2日、遂に力尽きた正頼は、嫡子広頼を人質とすることを条件に、晴賢と和議を結びました。
実はこの間、安芸の毛利元就が吉見氏支援を決意し、三本松城に援軍を送り込むとともに、
吉見討伐に向かって手薄となった安芸・備後の晴賢の属城を攻略していたのです。
弘治元年(1555)10月、毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢と戦い、陶晴賢は武運の尽きたのを悟り自刃しました。
翌年、正頼は人質となっていた広頼を奪還して再び挙兵し、毛利軍に呼応して長門阿武郡に侵攻しました。
弘治3年(1557)4月3日、大内義長は長府の長福寺において自刃し、ここに大内氏は滅びました。
毛利元就はその論功行賞において、正頼の軍功を第一とし、攻略した阿武郡全郡と佐波郡・厚東郡内の地を宛行いました。
これ以後正頼は毛利元就に臣従し、主に九州方面で活躍することになります。
吉見氏時代の末期、津和野は中世の市場的集落から近世の城下町形成へと進みつつありました。


慶長5年(1600)関ケ原の合戦に際して、十四代吉見広長は西軍の総大将である毛利輝元に従ったため、
毛利氏の萩への転封にともなって長門に退転。
替わって関ケ原の合戦で軍功のあった坂崎出羽守直盛が津和野城主となりました。


坂崎氏は備前宇喜多氏の一族であり、在位16年の短期間に津和野城の大改築、
城下町の骨格づくり、新田開発、和紙の原料である楮苗の栽培、灌漑用水路の建設、鯉の養殖など、
今日の津和野の礎を築いた名君でありました。




この坂崎出羽守も千姫事件のため1代でお家断絶となり、元和3年(1617)亀井政矩が因幡鹿野より4万3千石で入封。
以後、津和野城は亀井氏11代の居城として明治維新を迎える。



【千姫事件】
元和元年(1615)大坂夏の陣に際して、坂崎出羽守は炎上する大坂城内から
徳川家康の孫である千姫を満身創痍となって助け出しました。
これは千姫を与えるという家康の言葉を信じたからでした。
ところが意に反して千姫は本多忠刻(ほんだ ただとき)のもとに嫁ぐことになりました。
(出羽守より本多忠刻のが、今で言う『イケメン』だったため、千姫が本多忠刻を選んだという説もあるそうです)
これを知った出羽守は千姫の輿を奪い取り、刺し違えようとまで思いつめました。
この騒動の張本人である家康はすでに亡く、千姫の父二代将軍徳川秀忠は幕府への反逆として断固たる処置を命じた。
老中評議の結果、坂崎出羽守の自決で決着させようとしましたが、出羽守はこれを聞き入れず、
結局坂崎家の家老が出羽守を殺害しその首を幕府に差し出した。
このため坂崎家は津和野城主となってわずか16年でお家断絶。
坂崎出羽守は悲劇の武将といえるでしょう。




以後、歴代藩主は産業開発と教育の振興に力を注ぎ、一時は実録15万石といわれるほど華栄しました。
8代矩賢は藩校「養老館」を創設し、11代茲監は藩の機構改革を実施、人材育成の充実を図りました。
このような歴代藩主の人材育成重視の施策が、幕末から明治・大正期にかけて活躍した日本を代表する人物
---国学者福羽美静、近代日本哲学の祖西周---文豪森鴎外などを輩出する礎をつくりました。

津和野城は、吉見氏14代(319年間)、坂崎氏1代(16年間)、亀井氏11代(255年間)の居城でした。


明治に入ると明治4年(1871)の廃藩置県によって浜田県(のちに島根県)に属し、
明始12年(1879)には現在の町役場に郡役所が設置され、郡の行改、経済、文化の中心として発展しました。
そして明治22年(1889)の市町村制施行により津和野町が発足、昭和22年(1947)に津和野町、小川村、
畑追村、木部村の近隣四町村が合併、さらに平成17年、日原町と合併し、現在の津和野町が誕生しました。









津和野カトリック教会
明治25年(1892)、萩に赴任したビリオン神父が創設したとされる教会で、
現在の建物は昭和6年(1931)、ドイツ人宣教師によって建てられました。
外観はゴシックですが、ステンドグラスの美しい礼拝堂には畳が敷かれた、珍しい内観になっています。


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2008年9月 3日(水)       記       /           

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