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大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)

広島県呉市宝町5−20



呉で建造された世界一の戦艦、「大和」の精巧な模型や本物のゼロ戦などを展示してあります。
「大和」の模型(全長26.3メートル)は実物の10分の1の大きさです。

【技術の結晶戦艦「大和」】
軍縮期に設定された艦艇の保有・建造制限に対応するために高められた技術の集大成として
史上最大最強の戦艦「大和」が設計されました。
「大和」型戦艦は構造がきわめて複雑で、予定通りに工事を完成させるには緻密な計画が必要でした。
また、機密保持も工廠の設備から市民生活にいたるまであらゆる面で徹底され、細心の注意が払われました。
国力面におけるアメリカ側の”量”的優位に対し、日本が”質”で対抗しようとした艦であり、
当時の最新技術の結晶と言えるものでした。
その技術は日本の復興と高度成長を支え現代にも受け継がれています。



昭和16年(1941)12月16日に竣工後、「大和」は連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたりましたが、
すでに主役の座は戦艦から航空機へと移っており、「大和」は支援任務が多くなります。
昭和20年(1945)4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途上、
米艦載機の攻撃を受け沈没、乗員3,332名のうち3,056名が大和と運命を共にしました。
乗組員たちは沖縄特攻に際し、遺書・手紙・葉書などに家族への思いを託し出撃していきました。

戦艦「大和」建造の技術は生き続け、世界一の大型タンカー建造だけにとどまらず、
自動車や家電品の生産など幅広い分野で応用され、戦後の日本の復興を支えてきました。



昭和60年(1985)「海の墓標委員会」、平成11年(1999)「大和プロジェクト'99」(全国朝日放送梶jの
2回にわたる潜水調査・一部遺品の引き揚げにより、
「大和」の最期を知る多くの手がかりが得られました。
これらの調査は、半ば伝説とされてきた過去の戦艦「大和」と、
それにかかわった人々の生きざまを現在に生きる私たちに伝えてくれる貴重な架け橋となりました。





【呉の歴史】
明治22年(1889)に呉鎮守府、明治36(1903)年には呉海軍工廠が設置され、
戦前は戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港、日本一の海軍工廠の街として栄えました。
戦後には、戦前から培われてきた技術が新しい技術と結びつき、
世界最大のタンカーを数多く建造する有数の臨海工業都市として発展してきました。

太平洋戦争が始まると、日本の艦艇の建造・修理をになう呉海軍工廠の役割はますます大きなものとなり、
やがて繁忙をきわめるようになっていきます。
日本最大の海軍工廠があった呉は、アメリカ軍の空襲の標的となり、14回にもおよぶ空襲を受け、うち6回は特に激しいものでした。
広島に原子爆弾が投下され、呉からもキノコ雲が確認されました。(この様子はビデオで放映されていて、とても勉強になりました)
呉からは救援隊や調査団が派遣され、調査団は日本で最初に原子爆弾の存在を確認しました。

空襲などにより荒廃した呉市は、戦後、平和産業港湾都市としての復興をめざし、
世界的な造船のまちとして名を馳せ、科学、技術、製造、文化など多方面での発展をみました。




☆九三式魚雷



☆零式艦上戦闘機六二型




3階の展示室は海洋開発や宇宙開発へと夢をはぐくみ広げてきた科学技術を、
時空を超えた未来への希望を創造し続ける松本零士氏の世界などを通して紹介しています。



☆宇宙戦艦ヤマトの模型

宇宙戦艦ヤマトは、死を背負って出撃していった戦艦「大和」の最期と、
それを受け入れざるを得なかった乗組員の方々の思いを、
宇宙の海に置き換えて、生きて帰る船として描かれています。

モグラ親子の西 行 記  ≪壱≫ へ戻る


2008年8月9日(土)   大和ミュージアム あああ     

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